昭和42年01月25日 朝の御理解
皆さんが、こうして、朝の朝菜に、朝のご祈念にお参りをされるという事は、いうなら容易ならぬ修行だと思います。眠さとか、寒さとかという様なものも、大変な事だと思うのでございますけれども、私共が真実の幸せというものを願わしてもらい、又、その真実の幸せの道がもしあるならば、その道をはっきり明示して欲しい、教えて欲しいというのがこうした朝参りの信心なら信心の姿になって現れておるのだと私は思います。又、それでなからなければならんと思います。
それは目先目先のおかげの事もでございます。痛ければ痛い、痒ければ痒いで、やはり難儀は難儀でございますから、その事もおかげを受けなければならんのでございますけれども、大きな神様のお心、大きな神様の願いからすると、実は目先目先の事は、実は本当に小さい事なんです。これは私もそうですけども、私ももう限りないおかげを、いよいよ頂きたいと思うとります。
ですから、為の修行ならいといません。これが私の修行の姿勢であります。神様へ向う態度なのです。よく徳の亡者という事がありますね。ガリガリのお金さえ儲ければ良いと、いわゆるお金の亡者という様な事を申しますが、私はそういう意味でそのま、いうならおかげ亡者であり、そのおかげという事を、だんだん高度な事になってまいりまして、お徳を頂くというおかげの亡者。
ですから、もうお徳が頂けれる事なら、人が笑うても、悪口を云うても、そんな事なんかは、私は頓着しないと自分で思うとります。あれがあー言うから、あー言うて人が笑うから、そげな事では私はやはりいわゆるお金を貯める、お金の亡者になれない様に。これは悪い言葉ですけれども、悪い事ですけども、お互いひとつ徳の亡者になら、なっても良いと思いですねぇ。小さい欲を捨てて、一つ大きな欲に生き抜かせて頂こうじゃないかと、というのが私の皆さんに何時も提唱しとる事なんです。
ですから皆さんも、どうぞ一つ、そういう大きな心持でですね、ご信心をいよいよ、いわゆるおかげの進展を計られる、限りないおかげを願われるという事と同時に、限りない信心の進展を又、願いなさらなければならないと私は思う。どうでしょうか、でなかったらこの朝参りの修行がですね、非常にその価値が少ない事になります。
その朝参りの値打ちというか、朝参りの価値をです、椛目でもこれだけ沢山なご信者があるけれども、毎朝やはり朝参りのをなさる方というのは、ある意味で限定されておる様なもの。日によって多い事もあり、少ない事もあるけれど、その人達がやっぱ朝参りでもしようというからには、そこに何か一つの志をたてて、本気で、修行もさして頂こうと、どうぞおかげも頂きたいとこういうのである。
でしょうが、ですからですね、やはり、私はその限りないおかげの頂けれる信心。そこでほんならば限りないおかげ限りないおかげというて、本当に受けられるだろうかと、皆さんが言う人もある思う人もあろうけれども、しかし椛目ではそれは必要ないと思うんですよ。何故って私が、そう言いながら私自身が頂いておるという姿が目の当たりにあるんですから、目の当たりに。
ほんなこつじゃろか、朝参り続けりゃそげなおかげ頂けるじゃろかと、という様な事は皆さん、もうそういう疑いからは脱皮しなければいけません。親先生の信心についてさえ行きゃ、もうついてさえ行きゃあおかげ頂けると確信してです。私はその修行に取り組んでいかなければならん。そこに修行の楽しみもでけて参ります。眠さ寒さどころではないおかげが受けられるのですよ。
今朝も私、その事を思うたんです、ご神前で。神様、私は限りないおかげが頂きとうございますと、そのかわりにです、私修行はいといません。 なるほど今、末永さん達がやっとります様に、昨日は丁度、一週間の断食が満願の日、いうなら日でございました。皆んながもう家族信者が、この人の知っとる限りの人は、それに伴走的なやはり修行をしたり、祈りをするんですね。
ですから昨日は皆んなその昨日十二時を越しますと七日が 満願になる訳なんです。だからもう何時間もあすの朝迄待たせないという訳なんですね、それで皆んなが六~七名残っとりましたでしょう。私はもう、風邪具合が悪かったから、もう十一時半頃休みましたけど。もう三十分だからというてですね、けれども、片っぽはその一生懸命修行が楽しゅうしてたまらんのですから、脇から考える様な事はございませんのです。
例えば修行が楽しゅうなってくるとですね、そういう事なんです。脇から見たら馬鹿らしいのですけれども、本当に修行は尊い。そういう意味で私は、そういう末永さん達が今やっておる様な修行を、私はそのあえてしようとは思いません。火や水の行とこういう様な、断食の行といった様な行を、今、私はしようと思いませんけども、神様がその変わりさせて下さる修行ならです、いとわないという気持ち。
だからその根本になるものはです。例えば末永さん辺りがやっとります様な修行がです、ひとつの表行がでけるくらいなですね、それを敢然とやってのけれるだけの私は勇猛心がないとですね、その神様がさして下さる修行をよう受けきらんです。そういう意味で私は表行は尊いと思うんです。
表行によって力を頂く、ですから神様が求め給うところの修行がです、成り行きの中に起きてくる日々の中に起きてくる。それを敢然とそれは血の涙の出る様な事もありますよ、悲しい事もございますよ。けども神様がさせて下さる修行なのですから合掌して受けていかなきゃいけんのです。
ですから私、今朝もそれは例えどの様に笑われる様な事であろうが、血の涙の出る様な事であるかも分からんのですけども、神様がさして下さる修行ならば私はいといませんということ。そのかわりに私にはどうぞ限りない力と限りないおかげを、限りなく頂いていきたい。ま、こう願を立てさせても頂き、今朝はその事を特に感じさせて頂いたんです。ねぇ皆さんどうですか、その限りないおかげ頂かにゃいけませんよ。
この前の月次祭に頂きます様に天衣無縫なのです。必要なものが必要に応じて、素晴らしいタイミングの中に日々があれもおかげとこれもおかげと実感しなければおられない程のおかげの中に住わせて頂くという事を目指さなければいけませんよ。いわゆるわが身は神徳の中に生かされてありというです。
そういう喜びをですね、心の中に一杯頂かせて頂きながらの、それぞれの家業であり修行でながらなければ、私は信心の楽しみはないと思う。そこでです、その事をお願いさせて頂きよりましたら、昨夜上滝さんところの謝恩祭でございました。あちらに頂きますご祈念中にですね、こう言う事を頂きます、こう言う事と言うが、教祖の教えの中に、神様は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるという御教えがございますね。
荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。又、四神様のご理解の中に、この方は不浄を嫌うと仰る。不浄とは不浄の事ぞと仰った。不浄とは漢字で書いてある、不浄とはならないと書いてある。成就しないと書いてある。赤不浄とか黒不浄、そんなもんじゃないという事。この方の不成は、不成の事ぞと、漢字で分かりやすく書いてある。不成とは成就しないという事なんた。
私共が願いを立てる、その願いが成就しない事が不成ぞと仰る。いわゆる神様が一番お嫌いになることぞという事なんです。素晴らしいじゃないですか、お道の信心の素晴らしい一面が、そこにもある様ですねぇ。不浄という事なんか問題、普通でいっとる不浄なんかは不成じゃないとこう仰る。願っておる事が成就しない事か不成だと。そこで昨日上滝さんとこで頂いたご理解はですね、ま、省くといたしましてです。
今日、又その事について頂く事を聞いて頂こうと思うんです。荒れ地荒れ屋敷、それはなるほどお互い、悪しき心が荒れておる、田が荒れておる、畑が荒れておる、それもそうでしょうね、やっぱりお粗末ですもの、人間の不行届の為に折角のその田地なら田地を荒しておくという事は、天地に対しても相すまん事です。けれどもそんな事じゃないのですね。いわゆる次に御教えの中にですね。
おかげは和賀心にあるという事もですけど、天地はわが心にありと世界はわが心にありと教祖は仰っておられる。世界という事は天地に通う事だとこう思うのです。とてもこの地球の一杯あるものがですよね、地球だけじゃありませんね、これはもう宇宙全体がです、自分の心の中にある。そんなに心の中に入りきらん様に思うのですけども入るのです。心の中には、どんなに小さいにもなりゃ、どんなに大きくでもなれるです。
けどもそういう地球とか天体といった様なものでなくてですね、確かにこのわが心にあるという事なんです。わが心の中に天地があるのだと世界があるのだと。いわゆる心の世界、心の天地、その中にあるところのものを荒してはならんのだという事なんです。荒れ屋敷を作ってはならないという事なんです。荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。自分の心の中が荒ちゃならん、自分の心の中の培うもの耕す事、肥料を施す事限りなく雑草を取り除いていこうとする、いわゆる限りなく美しくしていこうという事。
例えば一反から収穫が十俵あるとするならば、一丁おかげを頂きゃ百俵ですからね。百丁おかげを頂けばどういう事になりますか。膨大な沢山な収穫があります様に も私ゃ一反で良かといった様な事を云わずに、今日の私の願というのはです。もう限りなく十丁は二十丁でも百丁でも、限りなく自分の心にそのおかげの場というものを広げていきたいという願なんです。それには私が修行はいといませんという信心態度なんです。
自分の心を荒らしたり、汚したり、自分の心をいよいよ雑草だらけにしたんではいけません。それをいよいよ広く大きくしていく為に、いよいよ自分の心の天地を自分の心をです、いよいよ広げていくところのおかげを頂かねばならん。たったこの位な事のために腹が立つ、たったこの位な為にその悲しいと思う。これはやはり心の天地が狭いのです。ところがやはり、それが気になる心配になる、そこんところを稽古させて頂くうちにです、その事が問題が問題でなくなってくる。おかげを頂かなければならん。
おかげはわが心にありと仰る事が一段と分からせて頂く様な気がいたします。おかげはやはり自分の心の中にあるのだ。しかもその自分の心が小さければおかげも小さいし、大きゅうなればやはり大きいおかげが受けられるという事が分かるのです。その為に皆さんの例えば朝参りの修行などがです、その為に限りない進展を遂げていく為に、皆さんの信心の願いというものがあるならばです。いよいよ天地が心の中に押し広められていく事であろうとこう思います。
同時に限りないおかげがそれに約束されていくのです。それについてくるのです。それにこうして日々信心の稽古さして頂きながら、私共が小さいおかげの為に、小さいおかげというか目先のおかげを願ってならんのじゃない。その事だけに私は目の前が目先が分からなくなってくる様な事であってはならないと思う。皆さんの例えば日々の信心修行がです、もう一歩、そういうおかげは和賀心にありと。
この神様は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるのだから、神様に合点してもらえれる、神様に信用して頂けれる様な私共にならせて頂こうという願いに、私共が方向を向ける変えるという事がです。朝参りも又、楽しい信心修行という事になるのだと、方向が、只、この事ば頂かんならん為にという事であったらです、もう信心は浅いものというでしょうか、楽しみのないもの、やはり信心は修行は辛いものという事になります。
どうぞひとつ此処では私自身もそういう大変ないうなら野心とも申しましょうか、野望かもしれません、私が願っとるところは、本当にそれこそ、誇大妄想狂とある人はいうかもしれません。皆さん、私にそう言うんですよ、昨日も、私の昔の、北京時代の友達が久留米の総代さんを伴ってから、あちらへ見に来たんですけどね、そりゃもう建坪が四百何十坪あるというたらびっくりしてしまった。
屋敷が六反もあるといったら本当にびっくりしてしまった。そげんして言われるけど私はいっちょんそれを広いとは思わんのです、本当いうたら。まあだ向こう耳納山迄は、まだこげん広かとですよという気がするんですよ。本当にそげん私は思うんです。まあだ横さんも、あすこの場合はまあだ広げられるし、上さんはまあだなんぼでも広げられるとじゃけん。いっちょんそげん思わない。
それが言うならばですたいね、本当に誇大妄想狂と言われるかも知れませんけれどもです、そういう限りないおかげを心の中に願っております。 人間も私達は、このくらいおかげ頂きゃもうそれで良いという様な信心ではですね、そのおかげですから頂かれんです、そんな事では。例えばほんなら私が、千も万もの願いの為に修行さして頂いて始めて、百が二百がでしょうね、恐らく頂けるのが。
ですから願いはやっぱり、大きゅう持たにゃいけんです。もうこの位で良いて言いよったら、この位なおかげも頂けんです。そん為には信心の向きというものを変えなければでけないでしょうが。なるほど神様は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるならば、その荒れ地荒れ屋敷を自分の心の中に、自分の心の中に天地があるとするならばです。その天地を清めていこう、天地をいよいよ地味豊かなものにして行こう、いよいよ大きなものにしていこうという願いを立てなければいかんのです。
でなかったらその、限りないおかげ、同時にその為にはその為の修行ならばです、いといませんという信心態度が出けてきて、始めて元気な心。昨夜帰りに久保山先生ところが昨日二十日祭でしたから寄らせてもらいました。総代さん方全部で寄ってまぁしばらく意見の後、久保山先生の思い出話をさせて頂きながら帰らせて頂いたんですけども。あちらで私がご神前で頂きます事はですね。
「吹き流し聞き流し」と頂きました。吹き流し聞き流し。それからなんじゃったかね「風が強けりゃ勇ましい」と皆さんの方がよう覚えとる。吹き流し聞き流し、風が強けりゃ勇ましい、風が強ければ強い程あの吹き流しがですね、勇ましく見えるという事なんです。いかに吹き流しが上っとりましてもですね、風も何んもなかったら、でれっと下がってから見場が悪いでしょうが。
昨日、高芝さんが現場に行かれたところが、あすこへ仕事に来ておる人達が一服しながら話してるんだそうです。久保山先生はどうしてあげな風にして、亡くなられたじゃろか、信心しよってどうしてあげなこつが起こったじゃろかと。まあ言うならいう様な事なんです。そういう様な事を、いわば先の事は人間は知らんと仰る。先の事は神様だけしかご承知ないのだ。だからそげな事は聞き流しておけとこういう事なんです。
その聞き流すという事が元気な心がなからなければできんのだと。そういう例えば風当たりが強ければ強い程、例えばいうならば人が泥棒というても乞食と言うても、私は何時泥棒したか、私が何時乞食したかと赤面弁慶になっていう事はいらんというのである。ちゃんと神が顔を洗うてやると仰る。先の事は分からんのである。例えば私共の事でもそうです。本当に信心すりゃどうしてあげん貧乏せにゃんじゃろかという様な事が、目の前で云われる様な事は何時もでした。
けれども今私がおかげ頂いとる姿を見てから、いわば二十年前の私の友達が、何と言うてそれこそびっくりしておるかという事なんです。さすがに神様じゃなぁというて、やっぱびっくりしております。人間の知恵、力で出来るこっちゃないというております。そん時いわゆる私の顔洗うて下さっただけではなくて、その時にはすでにそういうおかげと力を受けておるという事が尊いでしょうが。
だから吹き流させとかなきゃいけんのであり、聞き流しておかにゃいけんのである。むしろ、その風が強ければ強い程、実は勇ましいんだという事なんです。その勇ましいまでのです、私は、元気な心を持って修行には取り組んでいかなければならないという事を感じるです。そういう信心過程もございますよ。
そして、いよいよ心の天地の中にです、荒れ地荒れ屋敷を狭ばめていき、荒れ地荒れ屋敷を開墾していくところのおかげ、開拓していくところの開拓精神、そこに一反の物は一丁になり一丁の物はニ丁になっていくところのおかげを頂いていく。でなかったら限りない、いよいよおかげになっていかんです。も限りなくおかげを頂きたいと思うならやはり限りない信心の進展を願わなければなりません。
どうぞ